リビジョニスト問題3
どうして「ホロコースト見直し」問題についてやたらと硬直した意見が多いのか分かってきた。
個人的にはナチスがユダヤ人を迫害したことも、ユダヤ人がたくさん死んだことも事実だと思っているので第三段階までのステップは理解できるのだが、第四段階の対処には全く賛同できない。
本来なら、正しい内容が広まるように研究や弁論を推奨するべきではなかったのだろうか?研究や弁論を封じるということは、その問題を守ることではなく、終わったものとして殺してしまうことのような気がする。あるいは、思考停止と言うべきか。
このあたりの事情を理解すると以前目にした「ホロコースト神話」という言葉の意味が別の形で理解できるようになってきた。「異論を唱えることを禁止されたとき、それは学問ではなく信仰になる」と言うことなのだろう。
私は「狂信的な宗教観」が嫌いで、教理教条についても疑問や異論を呈することは当然だと思っている*1ぐらいなので、そんなやり方には従うことができない。
だから「自由な議論と検証が必要」という立場をとるとすると、やはりリビジョニストと分類されるのだろう。
各国がするべき事は「異論を持つことを禁止する」事ではなく、「異論をきちんと論破していくこと」だ。それは「異論を生み出し続ける」事でもあるが、そうすることがなければ歴史から何かを学ぶこともないだろう。
今回の一連の議論でも「ガス室の有無」にこだわる態度というのは不思議に思えたのだが、「ガス室の有無を論争の対象にすることで、次の段階として虐殺の有無を論争の対象としてしまう」ということに対する警戒感の表れなのではないかと思うようになった。
そもそも、「何が真実なのか」を政治が決めるようなことがあってはならない、というのは日本が前の大戦で学んだ事だと思っている。そういう意味で、国旗国歌問題で裁判になったりするような状況はむしろ健全だと思っている。*2
(ただ、そうでもしないと国というのはばらばらになっていくらしい、と言うことも学んでいる気がする……)